■物語としてのスポーツカー(1)

 "VEMAC RD180"は、突然産まれたわけではない。
 多くの優れたスポーツカーは輝かしい物語を羽織っているものだが、"VEMAC RD180"にもまた、ここまでくるには長い物語をくぐり抜けてきたのである。幸福な偶然から、ぼくもまたそんな物語を知っている人間のひとりなのだ。
 長い物語の場面の一つを、CG誌が'95年5月号に書きとめている。
<1979年、夏、英国の小さなサーキットで行われたF3レースで、一人の日本人が悪戦苦闘していた。15年後の1994年の師走、この車の発案者でありデザイナーである畑川治、かつて挑んだイギリスの小さなサーキットに因んで「カドウェル」と名付けられた車のシェイクダウン・テストが始まろうとしていたのである>  "R&D SPEED CADWELL"。その名前を記憶の片隅にとどめている人は、少なくないはずである。レースに関心の高い人々ならば、サーキットでのその颯爽とした走りっぷりを想起することだろう。ネオヒストリックカーレースでの活躍ぶりを記憶している人々も少なくないはずだ。
そしてこの純粋なレーシングカーであるCADWELLこそがVEMAC RD180 の物語の出発点のひとつなのだ。

VEMAC RD180の開発にあたって、レーシングドライバー出身の畑川治と組むもう一人の男が存在する。開発の総責任者であり、学生時代からレーシングカーの設計、開発をしてきた、(株)東京アールアンドデーの社長兼CEOである小野昌朗である。
 考えてみれば、ぼくと彼とは既に20年来におよぶ友人同士なのである。俳優の夏木陽介や元オートバイレーサーの片山敬済、自動車評論家の徳大寺有恒、イラストレーターのわたせせいぞう、"VEMAC RD180"のプロモーションを担当することになった元『ベストバイク』編集長の新美久始等、異なるジャンルにまたがり、小野昌朗の長い時間に及ぶ"自動車"にかける情熱を知る友人達は多い。
 小野昌朗は、普通に歩めば大学の教授になっていたような人物だ。穏和で人なつっこい性格、その論理的な発想は、多くの若い学生達を惹きつけたにちがいない。
だが彼は、自動車というものを愛し過ぎてしまったのだ。それが、彼の人生の航路を大きく変えることになったのだろう。
 小野が社長を務める(株)東京アールアンドデーは、クルマを愛する人々が集まり、「将来は世界のスポーツカーメーカーへ」という夢の実現を目指して'81年に設立された。簡単に言ってしまえば、エンジニアリング会社である。最近では多くの自動車メーカーからの開発を受託し、またカーボンコンポジットの技術開発や、電気自動車の開発等、多角的にクルマとかかわりを持っている。

 友人同士が集まると、ごく自然にクルマの話になる。誰かが最近手に入れたクルマ、手放したクルマ、オーバーホールを終えてアメリカから船便で届けられたばかりのクルマ。そして、いつも決まって最後は、小野昌朗が創ろうとしているスポーツカーの話になるのだった。
 だが正直に言えばぼく自身は、それは酒の席の夢みたいな話で、まさか彼がほんとうに夢を実現してしまうとは、思ってはいなかったのである。


■ 小野昌朗 略歴
1947年 兵庫県に生まれる。 小野昌朗
1966年 東京工業大学入学
1969年大学在学中からレーシングカーの設計を始め、以降1981年東京アールアンドデーの創立に参加するまで数多くのレーシングカー エバ2A、シグマGC/MC73、マキF1、コジマF1、ドーム ル・マンカー、等を開発。
1970年 東京工業大学機械工学科卒。
1981年 株式会社東京アールアンドデー創立に参加。 技術担当取締役
1984年 電気自動車の開発に着手 以来電気自動車業界で先駆的な開発を多数手がける。
1991年 株式会社東京アールアンドデー代表取締役社長に就任 現在に至る。

■ 畑川治 略歴
1947年 静岡県に生れる。 畑川治
1966年 京都府立田辺高等学校卒業。
1966年 航空自衛隊入隊 ジェット機整備に従事。
1969年 ホンダSFに入社、レーシングドライバーを目指して活動を始める。
 −1979年:イギリスF3にフルシーズン参戦
1980年 ハヤシレーシングに入社、取締役に就任 レーシングカーの開発、販売に携わる。
1986年 株式会社東京アールアンドデー入社、以後取締役に就任 レーシングカーの開発、販売に携わる。
1999年 株式会社東京アールアンドデー顧問に就任、ハタガワモータースポーツ設立。


BACK NEXT